笛を吹けば犬が帰ってくる――そんな簡単な話じゃありません。
「笛を吹けば犬が帰ってくる」
もし本当にそんな魔法みたいな道具があるなら、苦労するハンドラーはいないはずです。猟場で犬を見失いそうになって胸が冷える瞬間も、呼んでも呼んでも振り返らない背中に、こちらの心が置き去りにされる瞬間も、世の中から消えているでしょう。
けれど現実は違います。笛は便利です。距離があっても届きます。感情が乗りにくく、合図の形が崩れにくい。だから猟犬の世界では昔から笛が使われてきました。ですが、便利であることと、魔法であることは別物です。笛は「吹けば帰ってくる道具」ではなく、「意味を教えた犬だけが反応できる合図」なのです。
最初の反応は“リコール”じゃない
最初はたしかに反応します。
お母ちゃんが今まで出したことのない音を出すから、犬はこう思います。
「ん? なんだろな?」
「変な音がした。ちょっと見に行ってみよう」
で、様子を見に戻ってくる。
この瞬間を見て、ハンドラーはついこう思いがちです。
「お、笛で帰ってくるじゃん」
でも、それは違います。
それは“呼び戻しが入った”のではなく、ただ単に犬が新奇刺激に反応して確認しに来ただけです。人間にだってあります。聞き慣れない音がしたら、つい顔を上げる。犬も同じです。むしろ犬の方が敏感です。音に反応して、状況を確かめに来る。最初の「戻ってきた」は、その程度のことなのです。
2回、3回は戻ることもあります。けれど犬が、
「あぁ、そういう音も出すことできるんだ」
「なるほどね」
と納得してしまえば、その“物珍しさ”は消えます。そうなった瞬間、笛はただの音になります。つまり、最初の反応は再現性がある反応じゃありません。一度目立って、二度目もたまたま戻って、三度目も……という“たまたまの成功”は簡単に起きます。でもそれは訓練として積み上がっていないのです。
ここで多くの人が「笛は効かない」と思います。逆です。笛が効かないのではなく、笛に意味が入っていないだけです。意味が入っていない合図は、ただの音です。どんな高価な笛でも、どんな鋭い音でも、それは変わりません。
鳥猟犬の訓練は「マテ」と「コイ」から始まる
鳥猟犬の訓練は、突き詰めると「マテ」と「コイ」だと私は思っています。
マテ(止まる/動かない)
コイ(戻ってくる)
この二つがしっかり入ると、訓練は一気にやりやすくなります。信頼関係も服従も成立しやすくなり、ハンドラーが場を整えられるようになります。目の届く範囲、こちらの手の内で操作ができるようになれば、犬のミスも明確に伝えられるようになります。そして結果として、鳥は劇的に獲りやすくなります。犬がハンドラーを意識する。たったそれだけで、猟の形が変わります。
だから皆、「コイを強くしたい」と思います。
そして、そこで笛が登場します。
でも、笛を使えば簡単になるわけじゃありません。ここが一番大事なところです。
「コイをさせるために笛を使えば簡単になる」
そう期待したくなる気持ちは分かります。けれど現実は逆に近いのです。
いきなり笛を使っても、犬には分からない
いきなり笛を使ったとしても、犬には分かりません。犬はこう思うだけです。
「それ、何?」
「何をしろって?」
「意味あるの?」
笛は“言葉”じゃありません。最初はただの音でしかないのです。
犬にとって、その音が戻る合図なのか、止まる合図なのか、ただの気分の音なのか、何も意味がない音なのか。そんなことは最初から理解できません。だから笛を吹いたところで犬が帰ってくるわけがない。帰ってくるとしたら、それはさっき言ったように「なんだろな?」と見に来ただけで、訓練としての“コイ”ではありません。
ここで焦って連打すると、さらに悪化します。
笛を鳴らせば鳴らすほど、犬は「鳴っている間は行かなくていい」と学びます。笛は合図であってBGMではありません。鳴らし続けてしまえば、合図は“薄まる”のです。
笛は「意味」を教えて、初めて武器になる
笛は、音そのものに力があるんじゃありません。
笛が強いのは、意味が固定できるからです。
一度しっかり教えれば、感情が乗りにくい。距離が伸びても形が崩れにくい。環境音に負けにくい。いつでも同じ合図として使える。こういう強みが出てきます。けれど、その強みは最初から手に入るわけではありません。
犬の中で「この音=戻る」が成立するまで、時間をかけて教える必要があります。そして、その過程で一番大切なのは派手な技術ではありません。結局はこれに尽きます。
何度でも同じ意味で出す(=一貫性)
失敗させない形で終える(=忍耐と管理)
“たまたま戻った”を成功と勘違いしない(=再現性を見る)
笛で犬を操るんじゃありません。
笛に“意味”を載せて、その意味を崩さない。
それが笛のリコールの本質だと思っています。
どのタイミングで笛を教えるのか?
結論から言うと、“コイ”を覚えたなら、いつでも良いです。
それは成犬でも同じです。
ただし「いつでも良い」と言っても、いきなり笛を吹き始めれば犬が理解するわけではありません。笛は“音”であって、犬にとって最初は意味のない刺激です。だから、笛を教えるタイミングはひとつの基準で整理できます。
口声の“コイ”が、再現性を持って成立していること。
これが揃ったら、笛に置き換える(上乗せする)準備ができています。
子犬の場合:最初の「天才期」に惑わされない
子犬を飼ったことがある方はよくご存知だと思います。生後2〜3ヶ月ごろ、ブリーダーさんから子犬を引き取って家に迎える。生活が始まって、最初は名前を教える。すぐに覚える。次はリコール(コイ)を教える。これもすぐに覚える。
「この犬は天才だ!」
だいたい皆が一度は感じる、あの時期です。
でも、ここで大事なのは子犬が天才というより、環境が簡単だということです。家の中は刺激が少ない。距離も短い。犬の注意もこちらに向きやすい。だから室内では“コイ”が簡単に成立します。
そして、もしこの段階で「呼べば戻る」がある程度確信できるなら、笛はいつでも教えていいと思います。ただし室内で大きな音のする笛を何度も吹くのはおすすめしません。人間の耳にもストレスですし、犬にも刺激が強すぎることがあります。ちなみに犬の聴力は、人の数倍とも言われています。だから笛の導入は、最初は静かな笛で、庭先や見通しの良い草原、グラウンドなどで反復して教えるのが良いです。
でも多くの犬は「外に出た途端にできなくなる」
ここで必ず壁に当たります。
室内では完璧にできていたことが、外に出た瞬間に崩れる。呼んでも戻らない。地面の匂いを嗅いで無視する。遠くの音や景色に気を取られる。これは犬が悪いわけではありません。犬にとって新しい場所は注意を向ける対象が一気に増えるからです。
室内のコイは「易しい条件での成功」。
外のコイは「本番の条件での成功」。
この差は想像以上に大きいのです。
だから笛を教えるタイミングの本当のポイントは、室内でできたらOKではなく、“外でも同じように成立するところまで”持っていけるかどうかです。笛の導入はそのための道具であって、近道ではありません。
成犬の場合:外が“面白い”ことを知っているぶん難しくなる
年齢を重ねて外には面白いことがあると犬が知っている。匂いの世界も広がっている。猟欲や好奇心のスイッチが入りやすい。こういう犬ほど、笛の導入は少し難しくなることがあります。なぜなら犬の中で「外=自由」「外=探索」が強くなっているからです。
だからここで必要になるのが、チェックコードです。
具体的にはどのように教えたら良いか?
まず大前提として、チェックコードを使って“失敗しない範囲”でリコールを教えるのが一番堅いです。訓練の基本はいつも同じで、一貫性・反復練習・忍耐。これしかありません。
そしてもうひとつ大事なのは、リコールが出来るまでは同時に「止まれ」や「行け」を教えないことです。欲張ると犬の中で意味が散って、どれも薄くなります。まずはリコール一本で柱を作ります。
リコールの言葉は最初に決めます。「カム」でも「コイ」でも何でもいい。ただ、ひとつに決めて統一することが大切です。ここでは「カム」に決めたとします。決めたならカムで統一します。決してコイは使いません。名前を呼ぶことをリコールの合図にもしません。名前は注意を向けさせる音として残し、リコールはリコールで独立させた方が強くなります。名前を呼んだら戻る、にしてしまうと日常生活で名前を何度も使うため、結局「名前=何でもない音」に落ちやすいからです。
時間を作って毎日反復します。呼ぶ、カム。来ない。そこでチェックコードで軽く合図を送ります。それでも来ないなら、手元まで手繰り寄せて既成事実を作ります。戻ってきたら大袈裟に褒めます。ここでのポイントは「来るまで言い続けない」ことです。カムは基本1回で出します。連打すると犬は「連打されるまで行かなくていい」を学びます。そしてチェックコードは罰ではありません。犬に「カム=来る」が崩れないように、失敗を減らすために使います。呼んだのに来ないまま終わる、という経験を犬に積ませない。そのための道具です。
外でどうしても難しい犬は多いです。外は匂い・音・景色で注意が散るので、室内と同じ反応を求める方が無理があります。外で崩れる、合図が届かない、反応が薄い。そういう時は潔く室内に戻って成功の形を作り直します。出来るようになったらまた外へ出る。これを繰り返すのが結局いちばん早いです。
チェックコードの中でカムが安定してきたら、次の段階に進みます。手に持っていたチェックコードを放し、犬に引きずらせる“ロープダウン”の段階です。犬は引き摺るように走ります。呼ぶ、カム。来ないこともあります。ここで追いかけたり、カムを連打したりしません。やることは同じで、一つ戻ってチェックコードの範囲で呼び戻せるところまで戻して、訓練をやり直します。来る。カム。来る。カム。できた。こうやって「カム=来る」を犬の中で固定していきます。ここまで来るようになったら、言葉(口声)の意味を理解したと見て良いと思います。
口声が固まったら、次は笛です。笛も同じで、合図を決めて固定します。たとえばピピッ(2回)=カム。2回でカムと決めたら、途中で3回でカムに変えません。同時に止まれや行けも教えません。笛も一貫性が大切です。回数・長さ・リズムを変えない。焦ったときほど、これを守ります。
やり方は簡単です。犬が既に理解している言葉に笛を重ねます。カムの直後にピピッ。来たら褒める。カム、ピピッ。来たら褒める。これを数日、何度か連続して繰り返します。すると犬の中で「ピピッって音はカムと同じ意味だ」という置き換えが起きます。そしていずれ、ピピッだけで来るようになります。
ただし笛だけで呼ぶようになってもしばらくはチェックコードの範囲でやるのが安全です。外での誘惑は強いので、移行期に失敗を増やすと一気に薄くなります。ピピッで来る。もし来ないならチェックコードで成功に戻す。成功が続いたら距離を伸ばす。順番を崩さないことが大切です。
リコールは、訓練と猟欲のシーソーゲーム
最後にもう一度、最初の話に戻ります。
リコールを成功させる秘訣は、一貫性と忍耐です。逆に言えば、リコールが崩れる理由はシンプルで、訓練の量や質が、その瞬間の猟欲や好奇心に負けてしまうからです。犬にとって猟場は「やりたいこと」で満ちています。匂い、音、風、草むらの気配。そこに鳥が絡めば犬の世界は一気に色濃くなる。そのときハンドラーの「来い」は、犬にとって“今やりたいことをやめて戻る”という選択になります。つまりリコールは、ただの合図ではなく、訓練(ルール)と猟欲(衝動)の綱引きであり、シーソーゲームなのです。
「呼んだら来る」
この当たり前を徹底させるのに時間も手間もかかる。これは全てのハンドラーが感じていることだと思います。なぜならリコールは訓練場だけで成立すれば良いものではなく、本番の環境で成立して初めて価値になるからです。そしてその難しさは初心者だけの悩みではありません。全国大会に出場するようなベテランのハンドラーでさえ、本番で犬をロストすることがあります。日々訓練を重ねていても、その日のペアのコンディション、風向き、鳥の入り方、犬のテンション。いくつもの要素が重なった瞬間に、リコールがすっと抜けて、チグハグに見える日がある。
だからこそ、リコールは「できた/できない」で語り切れません。完成したように見えても、常に揺らぎます。揺らぐからこそ、一貫性と忍耐が効いてきます。リコールは魔法ではありません。“訓練が猟欲に勝つ瞬間”を、毎日の積み重ねで少しずつ増やしていく。その積み上げが、本番で犬を戻す力になります。
そして今日もまた、呼び戻しがうまくいかなかったとしても、それで終わりではありません。シーソーがたまたま傾いただけです。傾いたなら、次は勝てる条件で勝ちを積む。地味に、淡々と、同じ意味で、同じ形で。そうやって犬の中に「戻る」という柱を作っていく。それが、笛を“武器”に変える唯一の方法だと私は思っています。

